世界の社交界で存在感を放ち続けるレジェンド、デヴィ夫人。
華やかな気品と歯に衣着せぬ発言でメディアを席巻し、今なお多方面で活躍する姿は多くの人を魅了しています。
そんなデヴィ夫人の若い頃について気になりませんか。
そこで今回は、デヴィ夫人の若い頃の昔の写真と現在を比較をまとめてみました!
若い頃の仕事は何してたのかについても調べましたよ!
当時の歩みを振り返りながら、一緒に見ていきましょう。
デヴィ夫人のwikiプロフィール

- 通 称 :デヴィ夫人
- 生年月日 :1940年2月6日
- 年 齢 :85歳(2025年8月現在)
- 出身地 :東京府東京市麻布区霞町(現:東京都港区西麻布)
- 血液型 :A型
- 主な肩書 :タレント/国際社交家/慈善活動家
- 趣 味 :絵画、花壇、執筆
デヴィ夫人は、東京都出身の85歳です。
・本名(インドネシア名):ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
・本名(日本名・旧名):根本 七保子(ねもとなおこ)
デヴィ夫人は、赤坂・銀座のクラブで磨いた所作と語学を武器に、社交界へ飛び込んだ“現役感”あふれる国際派です。
スカルノ大統領との出会いを機に舞台は一気に世界へ広がり、パリでは“東洋の真珠”と称される存在感を放ちました。
ニューヨーク時代には環境・人道分野にも関わり、視野はさらに拡張。
いまは日本を拠点に、テレビや講演、著作、NPOで発信を続けています。
華やかさだけでなく、行動力と気品、その三拍子が持ち味といえるでしょう。
デヴィ夫人は若い頃の仕事は何してた?

いまや社交界で華やかな日々を送るデヴィ夫人。
でも、その土台となった若い頃は何をしていたのか気になりますよね。
- 保険会社勤務
- 定時制高校に通学
- 高級クラブでホステスとして勤務
昼間は、保険会社で働きながら定時制高校に通い、その後は赤坂・銀座の高級クラブでホステスとして勤務していたそう。
この二重生活こそが、いまの行動力と社交性の土台なんだと実感しますね!
では、若い頃から現在までのキャリアを整理してみましょう。
デヴィ夫人の若い頃~現在まで

今でこそ“社交界のレジェンド”と称されるデヴィ夫人ですが、そこに至るまでにはどんな人生を歩んできたのでしょうか。
年代別に見ていきましょう!
- 10代:昼は会社員/夜は学生
- 18ー19歳:スカルノ大統領と結婚
- 20代前半:国籍変更→大統領夫人として公的活動
- 20代後半:出産しパリへ
- 30~40代:パリ社交界/日本でのメディア出演
- 50代~現在:NYへ移住/国際活動など
1.10代:昼は会社員/夜は学生

学生時代のデヴィ夫人です。
10代の頃から大人の女性の雰囲気で美しいですね!
両親の病と貧しい家計を支えるため、働くことを決意したデヴィ夫人。
中学を卒業後千代田生命に入社し、夜は都立三田高校の定時制へ通学。
デヴィ夫人は当時のことをとても多忙だったと振り返っています。
中学を出た私は、150倍の倍率だったといわれていた千代田生命に入社し、昼休みは喫茶店でアルバイト、夜は三田高校の定時制へ通い、女優も目指すという、一日が30時間くらいに感じられる密度の濃い生活を送っていました。
引用:Wendy-Net
その後、所作や教養を磨きつつ、紹介で赤坂の高級サパークラブ「コパカバーナ」へ。
ここは海外VIPが集う社交場で、「お客さまの9割は外国人」という環境が英語力を鍛え、のちの転機(国際舞台へ)につながったそうです。
頻繁に行くうちにマダムに気に入られ、アルバイトをするようになり、私の英語力は磨かれていきました。のちにスカルノ大統領と出会ったとき、英語を話せたことは、とても大きなプラスになりました。
引用:Wendy-Net
今の輝きは、10代の下積みの賜物!
現在のデヴィ夫人の美しさや輝きは、10代の頃の下積みがあったからこそなのではないでしょうか。
2.18–19歳:スカルノ大統領と結婚

19歳の時のデヴィ夫人です。仕事柄なのか少し年上に見えますね。
コパカバーナで働くこととなったデヴィ夫人は、次第に頭角を表し人気No.1ホステスとして活躍。
磨かれた立ち居振る舞いと語学が評価され、19歳(1959年)にスカルノ大統領と出会う決定的な機会をつかみ、招きを受けてインドネシアへ行くことに決めました。
デヴィ夫人は当時の気持ちをこう語っています。
「こんなに美しいプロポーズは100年生きても聞くことはできないだろう。私は選ばれたのだ。そして、選ばれた以上、全力でお尽くししよう」と思ったのです。
引用:Wendy-Net
正式に結婚後、インドネシア名「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」が授けられました。
3.20代前半:国籍変更→大統領夫人として公的活動

22歳頃のデヴィ夫人です。大統領夫人の貫禄が出ていますね。
結婚後も日本国籍だったデヴィ夫人ですが、母と弟を亡くしたことをキッカケにインドネシア国籍に変更。
このことは、人生の中でもターニングポイントだったと語っています。
もう家族から自由になって、スカルノ大統領1人のために尽くしなさい、と。私はそれまで母と弟のために日本国籍を保持していたのですが、それを機にインドネシア国籍になりました。これが、もう一つのターニングポイントでしょうか
引用:知るぽると
国籍変更後は、各国の要人が集まるパーティーや海外訪問に同行し、公的な顔として活躍しました。
官邸では「大統領にとって一番の秘書」と自ら語るほど、健康管理や情報の調整役まで担い、スカルノ大統領を陰でしっかりと支えていたそうです。
官邸には、大統領の身の回りのお世話をする人がたくさんいましたので、私は大統領のベストアシスタント、ベストセクレタリーとなって健康状態を絶えず見守り、大統領の目の届かない情報を伝え、大統領が万全の状態で国務をこなせるよう、バックアップしていました。
引用:Wendy-Net
4.20代後半:出産しパリへ

大統領夫人としてスカルノ大統領を支えていたデヴィ夫人ですが、インドネシアで起きた政変(9月30日事件)をきっかけに、状況は一気に変わりました。
スカルノ大統領は権力を失い、国も家庭も緊張が続く環境へ。
国も家庭も緊張が続く最中、1967年3月11日に長女カルティカ(愛称カリナ)を出産したデヴィ夫人。

母子の安全確保を第一に、夫人は欧州行きの準備を進め、1970年にフランス・パリへ向かいました。
夫人自身もこの激動を“転機”として振り返っています。
5.30〜40代:パリ社交界/日本でのメディア露出
欧州社交界で存在感を放ちつつ、1970年代半ばからは日本のメディア露出も拡大します。
象徴的なのが小学館『GORO』創刊号でのグラビア掲載。

1979〜85年のクイズ番組『アイ・アイゲーム』にレギュラー解答者として出演するなど、テレビでも顔を知られる存在に。

同時に、欧州やアジアで事業と出版を広げ、東洋の真珠として世界に知られる存在になりました。
私には大統領夫人という地位、財力、若さ、美しさがあり、肌の美しさとただ一人の東洋人であったことで「東洋の真珠」と呼ばれて引っ張りだこでした。
引用:Wendy-Net

こちらは当時のデヴィ夫人の写真です。
立ち居振る舞いに凛とした芯が通り、東洋の真珠という言葉にも頷けます。
6.50代〜現在:NYへ移住/国際活動など

1991年にニューヨークへ移住したデヴィ夫人。
在住期は、環境・人道分野の取り組みに関わり、UNEP(国連環境計画)の特別顧問として活動しました。
2000年代以降は日本を主拠点に、テレビ出演・講演・著述などの発信を継続。
並行して、アース・エイド・ソサエティを通じてチャリティを続けています。
アース・エイド・ソサエティとは?
2005年にデヴィ夫人が設立したNPO。難民・被災地支援、環境保全、動物愛護、アート支援などを掲げ、チャリティ晩餐会などで寄付活動を実施。
近年は社会課題への発信も活発で、2025年2月に動物保護を掲げる政治団体「12(ワンニャン)平和党」を設立し、夏の参院選への立候補意向を表明。
のちに4月には解散を公表しています。

このように、「メディア露出(発信)」「国際・社会活動(行動)」「NPOによる継続支援(仕組み)」の三本柱で、今も現在進行形の活動を続けています。
85歳の今でも現役!
85歳の現在もなお、現役でいろいろなことに挑戦しつづけるデヴィ夫人。
まだまだお若いですね!
デヴィ夫人の昔の写真と現在を比較

昔から“美人”と評されてきたデヴィ夫人。
では、現在の写真と並べて印象の変化を見ていきましょう。

若い頃のデヴィ夫人は、強めにアーチを描いた眉とくっきりしたアイライン、アップヘアの相乗効果で頬骨と鼻筋が際立ち、モノクロ写真のコントラストも相まって彫りの深いクラシック美人という印象でした。
現在は、明るいベースにツヤとハイライトを効かせたメイクで輪郭のエッジがやわらぎ、眉もナチュラル寄り、リップはトーン高めで華やかさが増していますね。
年齢を重ねても表情の作り方や所作が洗練され、顔全体に気品と余裕が宿っており、成熟した美しさを感じます。
デヴィ夫人の若い頃まとめ
今回は、デヴィ夫人の若い頃について調べました。
- デヴィ夫人の若い頃の仕事は、生命保険会社勤務だった
- 10代の頃は昼勤夜学の生活をしていた
- 19歳でスカルノ大統領と結婚し、20代で子宝にも恵まれた
- 1965年の政変で情勢が一変し、パリへ移住
- 30代から日本へのメディア露出も増えていく
- 現在も様々な活動を続けている
- 昔も若い頃も美しく「東洋の真珠」と呼ばれていた
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