日本の皇室を長く支えてこられた美智子さま。
若い頃から優しさにあふれた笑顔と気品あるたたずまいで、多くの人々を惹きつけてきました。
そんな美智子さまの「若い頃のファッションが素敵!」と注目されていることをご存じでしょうか。
そこで今回は、美智子さまの若い頃の写真と現在を比較をまとめてみました!
若い頃から現在までの経歴についても調べましたよ!
当時の歩みを振り返りながら、一緒に見ていきましょう。
美智子さまのwikiプロフィール

- 名 前 :上皇后 美智子(じょうこうごう みちこ)
- 本 名 :正田 美智子(しょうだ みちこ)
- 生年月日 :1934年10月20日
- 年 齢 :90歳(2025年9月現在)
- 出身地 :東京都文京区
- 血液型 :A型
- 主な肩書 :上皇后/皇后(昭和〜平成期)
美智子さまは90歳の東京都出身です。
名門・正田家に生まれ、学習院女子大学を卒業後、1959年に当時の皇太子・明仁さまとご成婚。
戦後日本に新しい時代の風をもたらした功績として今も語り継がれています。
戦後初の「民間から皇室に入られた皇后」として、国民に大きな希望を与えました。
今も変わらず、優しさと気品に満ちた存在として、多くの人々に敬愛され続けています。
美智子さまの若い頃のファッションが素敵

今も気品あふれる装いで人々を魅了している美智子さま。
実は「若い頃のファッションが素敵!」と話題になっていました。
美智子さまのファッションはお若い頃から今までもずっと素敵よね〜〜U^ェ^U
— れい【野良のオタク】 (@ReiSatsuki) May 1, 2019
→本当に妖精かと思うくらいに可憐だし
— YU-KI@能登→2025年キンゴー隊(小早川隊)!(´・ω・`) (@1582_ten_mo_43) July 31, 2025
お若い頃の美智子さまは宝塚女優のように華がおありだし(美智子さまのお若い頃のファッション好きなんです)
皇后は若い頃は女優の武井咲に似てらして
御成婚して間もなくの伊勢参拝で遭遇した方は「輝くばかりの美しさで本当にこんな美しいひとがいたのか」→
上皇后陛下のお若い頃の写真集一冊電子図書で持っています。「美智子さま あの日 あの時」(渡邉みどり監修 講談社)です。やはり昭和のファッションリーダーのお一人、パンクやヒッピー文化など流行した時代に、皇室のエレガントを発信し続けたので、欠かせない人だと思います。
— ⚓コククジラ⚓🇯🇵🇧🇷🇹🇷🇲🇳 (@Y_whales) May 26, 2024
美智子さまの魅力は、年代ごとに違った表情を見せています。
そこで今回は、その装いを2つの時期に分けて振り返ってみましょう。
- 【20代頃:プリンセス期】清楚で可憐な美しさ
- 【30代頃:皇太子妃期】上品で大人っぽいエレガンス
【20代頃:プリンセス期】清楚で可憐な美しさ

こちらは25歳の美智子さまの写真です。
白いローブ・デコルテに身を包み、パールのネックレスと手袋を合わせた清楚な装い。
そのファッションと佇まいは、多くの人に「まるでプリンセスみたい」と感じさせるほど話題になりました。
「ミッチーブーム」が大流行になる!
そして、この頃の装いを真似した「ミッチーブーム」が全国で大流行します。

ミッチーブームとは、白ブラウス+ヘアバンドなどの装いが女性たちに流行したこと
当時の新聞や雑誌には、こうした“美智子さま風”の装いが繰り返し取り上げられました。
婚約発表や結婚時に羽織ったショール、ヘアバンド、パールのネックレスが流行。テニスコートでの白い開襟シャツと紺のカーディガン、プリーツスカート、そしてブローチも「プリンセススタイル」として人気に。「ミッチーブーム」が巻き起こった。
引用:朝日新聞デジタル
その気品あふれるスタイルは今も語り継がれています。
【30代頃:皇太子妃期】上品で大人っぽいエレガンス

こちらは、30歳前後の美智子さまです。
落ち着いた色柄の着物を凛と着こなしていますね。
若い頃の可憐さに、大人の女性らしい気品が加わり、皇太子妃としての存在感を感じさせます。
また、和装以外でも大人っぽいファッションを披露しています。

公務や訪問の際には、帽子や手袋、ブローチといった小物を巧みに取り入れています。
さらに、動きやすさを考えたケープ風のアンサンブルや、ひざ丈のAラインコートなど。
当時の流行をさりげなく取り入れた装いも注目されました。
美智子さまの若い頃のファッションは、本当に素敵だった!
美智子さまの若い頃~現在まで

上皇后として、上品で温かな笑顔で人々に親しまれている美智子さま。
そこに至るまでにはどんな歩みがあったのでしょうか。
年代別に振り返ってみましょう!
- 20代:学びから「テニスコートの恋」、そしてご成婚から出産
- 30代:子育てと公務の両立
- 40代:国内で広がる活動と家庭での母の姿
- 50代:沖縄での寄り添いと新しい皇后への歩み
- 60代〜70代:災害に寄り添い、支え合うご夫妻
- 80代〜現在:退位を支え、いまも寄り添う上皇后
1.20代:学びから「テニスコートの恋」、そしてご成婚から出産
こちらは、美智子さまが聖心女子大学を卒業された際のお写真です。

当時23歳の美智子さま。
整った眉と凛とした目元が印象的で、知的な雰囲気を漂わせていますね。
柔らかな笑顔からは、気品と同時に優しさも感じられます。
学問と青春の日々
1957年、美智子さまは聖心女子大学文学部英語英文学科を卒業。
大学生活では語学や文学を深く学んだ
中学・高校の英語教員免許を取得するなど、学問に真摯に向き合っていました。
一方で、青春の楽しみも大切にしていた美智子さま。
聖心女子学院高等科から始めたテニスに熱心に打ち込み、大学でもテニス部に所属。

関東学生ランキングでは上位に入るほどの実力!
学生時代に培った語学力とスポーツで鍛えた心身は、のちに国際親善の場や公式行事でも力を発揮しました。
婚約とご成婚
1957年の夏、美智子さまは軽井沢のテニストーナメントに出場されました。
その会場で当時の皇太子・明仁さまと出会います。

後に「テニスコートの恋」と呼ばれる、運命的な出会いです。
また、試合後に皇太子さまが「正確に返ってくる球じゃかなわんよ」と語られたというエピソードがあります。
観客は上皇さまペアの勝利を予想していたが、上皇さまが打ち込む球を美智子さまが粘り強く返した。「ああ正確に返ってくるんじゃかなわんよ。すごいね」。試合後、上皇さまは友人にそう漏らしたという。
引用:朝日新聞
美智子さまのプレーの確かさが伝わってきますね!
そして、ついに婚約発表!
翌1958年、婚約が正式に発表されました。

民間から初めて皇室に迎えられる皇太子妃ということで、日本中が大きな関心を寄せました。
「ミッチー・ブーム」と呼ばれる社会現象まで起こり、国民の熱気はすさまじいものでした。
そして1959年4月10日、皇居から東京駅までのご成婚パレードが行われます。

沿道には53万人もの人々が詰めかけ、テレビの前でも大勢が見守りました。
戦後間もない時代に、明るい話題として国民を勇気づけた歴史的な一日となったのです。
第1子誕生
1959年にご成婚された翌年、浩宮徳仁親王殿下(現・天皇陛下)が誕生。

新聞各紙は号外を出すほどの大きなニュースになりました。
国民にとっては「新しい時代の皇室の姿」を象徴する出来事といえます。
20代は、学びとテニスを経て、ご成婚、出産と国民的存在へと飛躍した年だった
2.30代:子育てと公務の両立
こちらは、美智子さまが30歳前後の写真です。

若い頃のあどけなさや可憐さに比べ、目元や口元には落ち着いた印象が加わっています。
微笑みは変わらず優しさに満ちていますが、表情の中に成熟した気品と自信が感じられますね。
母としての始まりと、スポーツへの温かな視線
30歳を迎えた1964年は、東京オリンピックの年です。

美智子さまは皇太子さまとともに開会式に臨席。
その直後に開かれた、東京パラリンピックにも積極的に関わられました。

皇太子さまは障害者スポーツと福祉の分野に強い関心を持っている
大会期間中、ご夫妻は何度も会場に足を運び、選手を励ましました。
さらに閉会後には、大会役員やボランティアを東宮御所に招き、労をねぎらったそうです。
1965年に礼宮文仁親王殿下(秋篠宮文仁親王)、1969年に紀宮清子内親王さま(黒田清子さん)を出産。

子育てが本格化しました。
皇太子ご夫妻は、外部に頼りきらず自分たちで育てるという方針だった
皇太子ご夫妻の「子育て」は、ご夫妻自身がかなり手をかけられていたことが記録されています。
「子供を育てるのは人間の心が中心になるので、何よりもまず本人の幸せを望みたい。一番大切なのは、両親が子供の個性や発達の型をみきわめて、深い愛情と忍耐で子供の心を大事に育てることだと思います」
引用:文春オンライン
この発言からも、「自分たちで育てたい」という育児観がはっきりしていたことがうかがえますね。
公務の幅を広げ、国際イベントでも存在感
1970年は大阪で日本万国博覧会がありました。
開幕行事や「日本の日」の式典などに皇太子ご夫妻として出席し、会場各所を精力的に視察。
美智子さまは柔らかな笑顔を絶やさず、外国の要人と自然に会話される姿が印象的でした。

20代に大学で磨かれた英語力やコミュニケーション力が、公務の場で大きな力となったことを示してました。
1971年以降も、地方訪問や文化行事への出席が増え、ご夫妻の活動はより身近なものになっていきます。
30代は、3人の子育てと公務を両立し、国民に寄り添う姿勢で後の皇后としての礎を築いた
3.40代:国内で広がる活動と家庭での母の姿
こちらは、1973年にニュージーランドに訪問した時の写真です。

当時の美智子さまは40歳前後。
鮮やかなブルーのコートに白いミトンを合わせた装いで、とても爽やかで若々しい雰囲気をまとっています。
髪はすっきりとまとめられ、凛とした横顔が際立っていますね。
国内での活動が広がる
40代の美智子さまは、国内での公務にさらに力を注ぐようになりました。
1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会(EXPO’75)では、皇太子ご夫妻で沖縄を訪問。

会場でのご夫妻の姿は、国民と共に新しい時代を歩む象徴として報じられました。
また、1979年の宮崎国体や全国育樹祭などにも臨席。

国民にとって身近で温かな存在として親しまれた!
選手や参加者に温かい笑顔を向けられる姿は「親しみやすい皇太子妃」として国民から共感を集めました。
3人の子どもの成長を見守る母
一方で家庭では、3人の子どもたちが次々と学齢期を迎えます。

母として学業や学校生活を支える日々でした。
子どもたちは学習院に通い始め、入学式にはご夫妻でそろって出席。

子どもに寄り添いながら見守るご夫妻の姿は、普通の家庭の親と変わらない温かさが感じられる
制服をお下がりで着せて通学させるなど、物を大切に使う教育を実践されたそうです。
なぜ、美智子さまはわざわざお父さまの古い制服を我が子にお着せになったのでしょう。それは、「質の良いものを長く大切に使い続けるのが、皇室の伝統的な考え方」だからであり、そのお心を浩宮さまにも伝えたいと思われたのでしょう。
引用:講談社コクリコ
学校行事や日々の学びを支えながら、公務にも励む美智子さま。
国民にとって「公務と母としての役割をともに果たす皇太子妃」の象徴となりました。
40代は、国内公務に励みつつ、3人の子どもたちの学齢期を温かく見守った年だった
4.50代:沖縄での寄り添いと新しい皇后への歩み
こちらは、皇太子さまが第125代天皇として即位された後の記者会見での姿です。

当時55歳の美智子さま。
落ち着いた表情の中に柔らかな気品が漂っていますね。
髪は端正に整えられ、淡い色合いのスーツ姿が凛とした雰囲気を引き立てています。
この頃は皇后としての責任感や重みが表れており、知的で落ち着いた大人の女性らしさが際立っています。
沖縄での交流とファッションの評価
1987年の沖縄訪問では、厳重な警備のもと現地を訪問。

ひめゆりの塔など戦争の記憶を残す地を訪れ、現地の人々に優しく声をかけられる姿が印象的でした。
また、この時期には公務だけでなく、ファッション面でも注目を集めました。

1988年には国際ベストドレッサー賞を受賞し、内外の公式行事での品位ある装いが高く評価されています。
美智子さまのファッションは「華美ではなく、上品で親しみやすい」と評されました。
皇后への転機
1989年1月7日、昭和天皇のご逝去に伴い、明仁さまが天皇の位を継がれました。

美智子さまは皇后となり、翌8日に元号は平成へ改められました。
この時期に皇后としての土台を作っていったのです。
歴代の皇后が引き継ぐ日本赤十字社の名誉総裁となった!

災害や病気で苦しむ人、ボランティアで活動する人たちを支える役目を担うようになります。
1991年には雲仙・普賢岳の噴火で被災地を訪れ、被災者に寄り添う姿が大きく報じられました。

1993年、美智子さまは声が出なくなる病に見舞われ、しばらく公務を休むことに。
のちに「現実を受け止めることが私にできる精いっぱいのことでした」と当時の心境を振り返られています。
「言葉を失うということは、あまりにも予期せぬことでしたので、初めはその現実を受け止めることが私にできる精いっぱいのことでした。」
引用:読売テレビ
それでも、公務を離れてからわずか1週間後、手話であいさつを行い再び人々の前に立った美智子さま。

声が出なくても気持ちは伝えたいという姿勢は、多くの人の心を打ちました。
50代は、沖縄やソウル五輪など国際舞台に立ち、やがて皇后として新しい時代を歩み始めた節目の年だった
5.60代〜70代:災害に寄り添い、支え合うご夫妻
こちらは、70歳を迎えられた美智子さまの写真です。

年齢を重ねた落ち着きと柔らかな雰囲気を感じますね。
淡い色合いの着物に金糸の帯を合わせた装いは、気品と優雅さを引き立てています。
微笑みには若い頃から変わらぬ温かさがありつつ、人生経験を重ねた深みが表情に刻まれています。
災害と国民に寄り添う皇后
60代の美智子さまは、阪神・淡路大震災をはじめとする数々の災害で被災地を訪問。

被災者一人ひとりに深く寄り添いました。
体育館の床に直接座り、避難生活を送る人の声に耳を傾ける姿は強い印象を残した
また、2002年の日韓ワールドカップの際には、「日韓両国民の親善関係の増進」に期待を込めた気持ちを公表。
日韓共催の大会がとどこおりなく終了したことを喜び、この経験が、日韓両国民の親善関係の増進に役立っていくことを期待しています。
初めて決勝トーナメントに進んだ日本選手の健闘をたたえます。またトルシエ監督の4年間の努力を深く多とします。
引用:朝日新聞
国際的な行事を通じても、平和と交流を願う姿勢を示した出来事でした。
試練と支え合いの年月

70代の美智子さまは、公務のご負担が増す中で、体調面での不調にも見舞われました。
ストレスで体調不良に‥!
2007年には強いストレスが原因とされる体調不良により、一時的に公務を休むことに。
それでも回復後には再び公務に復帰され、「できる限り務めたい」という姿勢を貫かれました。
またこの時期は、平成の皇后として各地を訪れ、国民に寄り添う姿を見せ続けた年月でもあります。
天皇陛下とともに災害被災地や社会福祉施設などを精力的に訪問。

国民一人ひとりに心を寄せられる姿勢を見せ続けました。
夫婦で支え合いながら歩むその姿は、国民から「寄り添うご夫妻」として親しまれる理由となったのです。
60代〜70代は、災害や被災地に寄り添いながら、体調不良を抱えつつも天皇陛下と支え合った年だった
6.80代〜現在:退位を支え、いまも寄り添う上皇后
こちらは、80歳のお誕生日を迎えられた美智子さまです。

表情や雰囲気にさらに落ち着きが増し、目元や口元の柔らかさに「包み込むような穏やかさ」が加わっています。
長い人生を歩まれたからこその安心感と品格が、外見にしっかりと刻まれていますね。
80代に入った美智子さまは、体調に不安を抱えながらも当時の天皇陛下を支え、公務に臨まれました。
明仁天皇が「生前退位」を表明!
2016年に明仁天皇が「生前退位」の気持ちを表明された際には、その決断を静かに支えます。
2019年の退位にともない「皇后」から「上皇后」となりました。

現在は東京都内の仙洞御所で上皇さまと共に静かな日々を送られています。

公務の第一線は退かれたものの、被災地や社会の出来事には変わらず思いを向け続ける美智子さま。
SNS上でも「尊敬している」といった声が寄せられています。
私達も素晴らしい陛下をもって幸せでした。お疲れさまでした。まだ、ほぼ4か月もありますが。それと、美智子様、ご苦労とお気づかいの中、陛下をずっと支えられありがとうございました。両陛下のご意志は皇太子さまと雅子さまが継承していかれるでしょう。素晴らしい人々の皇室で、私達も安心です。
— 澤田愛子 (@aiko33151709) December 23, 2018
私が心から尊敬する方は
— 青山フェルナンデ (@Fyellnangdie) August 18, 2013
皇后美智子さまです。
お美しいだけでなく、気品があってとっても素敵。。
美智子さまは令和の時代に入っても変わらず国民から敬愛されていますね。
美智子さまの昔の写真と現在を比較

若い頃の清楚で可憐な美しさが人々の心を惹きつけてきた美智子さま。
では、現在の写真と並べて印象の変化を見ていきましょう。
容姿の変化

30代の美智子さまは、透き通るような白い肌に端正な眉、きりっとした目元が印象的です。
若さの中に凛とした美しさが際立っていますね。
一方現在は、白髪を自然に整えられ、柔らかな微笑みの中に長い年月を重ねてこられた深みが表れています。
目元や口元には年齢のしるしが刻まれていますが、それがむしろ穏やかさと包容力を感じさせます。
清楚で凛とした美しさから、温かさと安心感を与える気品へと移り変わった!
ファッションの変化
ファッションも、どのように変化したのかみてみましょう!

30代の美智子さまは、白いスーツにパールのネックレスを合わせた清楚なスタイル。
端正なシルエットと小物使いが相まって、皇太子妃としての凛とした気品が際立っています。
一方、現在のファッションは、落ち着いたブルーの装い。
柔らかな布地とシンプルなデザインが、年齢を重ねた穏やかさと自然体の魅力を引き立てています。
美智子さまの若い頃まとめ
今回は、美智子さまの若い頃について調べました。
- 20代はプリンセスのように清楚で可憐なファッションだった
- 30代は上品で大人っぽいファッションをしていた
- テニスコートで当時の皇太子・明仁さまと出会った
- 1958年に婚約が正式に発表され、ミッチーブームが起こった
- 今上天皇の徳仁さま、秋篠宮文仁さま、黒田清子さんの3人の子供に恵まれた
- 国内外で公務に尽くし、国民に寄り添う姿を示した
- 常に寄り添いながら天皇陛下を支え続け、その歩みを共にした
- 容姿は温かさと安心感を与える気品へと変化した
- 年代にふさわしいファッションで気品を表現している
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