沢田研二さんは日本の音楽界を代表する・歌手・俳優のレジェンドです。
1960年代のグループ・サウンズを牽引、以降ソロに転向後も往年の人気を誇っています。
「ジュリー」の愛称でも知られていますよね!
そんな、沢田研二さんの若い頃がイケメン!と言われていることをご存知でしょうか?
そこで今回は、沢田研二さんの昔の写真と現在を比較しながら、イケメンと言われる理由を検証していきましょう。
また、デビューから現在までの経歴についても、振り返っていきます!
ぜひ、最後までお付き合いください!
沢田研二のwikiプロフィール

- 名 前 :沢田研二(さわだけんじ)
- 生年月日:1948年6月25日
- 年 齢 :77歳(2026年6月現在)
- 出身地 :鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)
- 主な肩書:歌手・俳優・ソングライター
沢田研二さんは、鳥取県岩美郡津ノ井村(鳥取市)出身の77歳です。
17歳の時に京都のダンス喫茶でアルバイトをしている時にサンダースに声を掛けられローディー兼ボーカリストに。
ステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部一徳さん)からリードボーカルにと誘われ正式加入します。
以降、セカンド・シングル発売後人気が爆発し、グループ・サウンズの頂点に上り詰めました。
端正な容姿で貴公子的な存在で若い女性を中心に熱狂的な支持を得ます。
2度の結婚を経験し、当時大きな話題に
1975年~1987年にザ・ピーナッツの伊藤エミさんと結婚、長男が誕生しましたが1987年に離婚を発表。
1989年実力派女優の田中裕子さんと結婚し、現在も仲睦まじく暮らしているそうです。
現在も、全国ライブツアーを開催されるなど精力的に活躍されています。

沢田研二の若い頃がイケメン!

端正な顔立ちという圧倒的なルックスで多くのファンを魅了してきた沢田研二さん。
「男らしさ」が主流と言えた昭和の芸能界に「男性の妖艶な美しさ」という概念をもたらした革命児と言えます。
若い頃の美しいイケメンぶりはSNSでも話題になっています。
果たして美しく生まれるのは幸せなのだろうか。郷ひろみのようにメンテナンスして今でもかっこいい人もいるけど、沢田研二も若い頃はものすごい美しかった。色気もすごかった。だけど一切この人は整形していない。現在の老いた姿もそれはそれで圧巻ではあるが全く何もしないのもある意味ポリシーなのか… pic.twitter.com/Ops6wz3hHf
— ぴーち(若返りオタクの愛犬家) (@peachtreefiz) February 24, 2024
ここでは、沢田研二さんの「若い頃がイケメン!」と言われる理由を3つのポイントと共に見ていきましょう。
- 貴公子のようなルックス
- 世の女性を魅了した妖艶な色気
- 元祖ビジュアル系
1.貴公子のようなルックス

沢田研二さんの若い頃がイケメン!と言われる1つ目の理由は少女漫画から出てきたような貴公子のルックスです。
切れ長の目と通った鼻筋と、どのパーツを見ても整っているのが印象的です。
少女漫画の黄金期のおける、美少年キャラクターを作成する際にモデルとなっていたそうです。

「ザ・タイガース」時代も王子様スタイルで絶大な人気を誇っていました。
日本のエンタメ界に革命を起こした伝説な存在
この、唯一無二の気品こそが若い頃がイケメン!と言われる理由の1つでしょう。
2. 世の女性を魅了した妖艶な色気

沢田研二さんの若い頃がイケメンと言われる2つ目の理由は、世の女性を魅了するまさにこの「色気」です。
男らしさを出していた当時の男性スターとは違い、女性的ともいえる中性的なエロティシズムを持っていました。
華奢な体格で、繊細でジェンダーレスな美しさを前面に出していました。

当時は等身大のキャラクターが主流でしたが、沢田研二さんはまさに「別世界の住人」として、触れることのできない圧倒的なカリスマでした。
挑発的な視線や、タバコを吸う仕草など1つ1つのポーズが美しく妖艶な雰囲気を醸し出していました。

綺麗だけではなく、どこか破壊的で危険な雰囲気を漂わせていたことが当時の女性ファンの心を鷲掴みに!
貴公子や王子様のようなスタイルから、シースルーの衣装や素肌にジャケットを羽織るスタイルを見せ世間を圧倒しました。
3. 元祖ビジュアル系

沢田研二さんの若い頃がイケメンと言われる3つ目の理由はこれまでの概念を覆す「元祖ビジュアル系」です。
当時、男性のメイクは「異様」と言われていた時代に、濃いアイシャドウやアイライン、マニキュアを日常的に取り入れていました。
現代のビジュアル系にも深く根付いているこの方法論を最初に見出した人物なんですって!

当時の沢田研二さんは「男が化粧するなんておかしい!」と激しいバッシングを受けていたそうです。
偏見を美学でねじ伏せていた
しかし、沢田研二さんが舞台に立つとあまりの美しさと圧倒的なオーラで世間は何も言えなくなったとか…!

ビジュアル系の基礎をすべて発明したと言われている沢田研二さん。
黒髪から金髪、派手な髪へのチェンジや、妖艶なアイラインとマニキュアなど現代でもしっかり受け継がれています。
「ビジュアル系」という新しいかっこよさを発明したまさに先駆者の沢田研二さん。
確かに、独自の美学を追求し走り抜けている沢田研二さん、まさにレジェンドと言えますね!
沢田研二の若い頃~現在まで

沢田研二さんは1960年のデビュー以降、日本の音楽シーンのトップを駆け抜けています。
歌手以外にも個性派俳優としても高い評価を得ていたり、バラエティ番組でのおちゃめな姿などまだまだ魅力が盛りだくさんのジュリーこと沢田研二さん。
ここからは、沢田研二さんの若い頃から現在までの経歴を振り返っていきます!
- 10代:デビュー後社会現象になる程の人気
- 20代:日本の音楽史のトップへ
- 30代~40代:キャリアの中で最も大きな転換期
- 50代:二足の草鞋を確立
- 60代~現在:生涯現役のロックスター
1.10代:デビュー後社会現象になる程の人気

17歳の時に京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイをしていた沢田研二さん。
ステージなどで歌を歌う場面もあったそうです。
そんな姿を見た、サリーとプレイボーズ(後のザ・タイガースのメンバー)に声を掛けられます。
音楽に人生を賭けるため高校を中退
1966年、熱烈なスカウトを受け、バンドにボーカルとして正式加入しました。

1967年、グループ名を「ザ・タイガース」と改め、シングル「僕のマリー」でメジャーデビューを果たします。
イギリスの女優、ジュリー・アンドリュースの大ファンだったことから「ジュリー」という愛称が定着!

「モナリザの微笑」に続き1968年に発売された「君だけに愛を」が記録的な大ヒットを打ち出します。
ステージ上で客席に向けて指さすパフォーマンスが少女たちを熱狂のあまりに失神させてしまう事も!
初の日本武道館単独公演を行い、グループサウンズの頂点へと上り詰めました。

「ザ・タイガース」はメンバー全員が人気でした。
中でも、端正で中性的な美しさがあった沢田研二さんの人気は絶大でした。
雑誌の表紙や、テレビ画面を独占するほどの存在で、多くの女性ファンを魅了していました。
2.20代:日本の音楽史のトップへ

20代の頃の沢田研二さん。
1971年に人気絶頂の中で「ザ・タイガース」は解散!

直後にスーパーバンド「PYG」を結成しました。
グループサウンズをけ牽引した3大バンドの主力メンバーが集結して結成されました。
しかし、往年のロックファンから「商業アイドルがロックのまねごとをしている」と大ブーイングを受けました。
活動期間は短く、シングル数枚とアルバム2枚を出し自然消滅の形をとりましたが、日本の音楽史における功績を残しました。

1971年、23歳の時に「君をのせて」で待望のソロデビューを果たしました。
オリコン最高36位と静かなスタートとなりました。

作詞家の阿久悠さん、作曲家の大野克夫さんという黄金コンビと出会ったことで一気に才能が開花しました。
24歳で発売した、歌謡ロック「危険なふたり」が65万枚を超える大ヒットを記録しました。

自身が主演したドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌の「時の過行くままに」をリリースしました。
ドラマの世界観が見事にはまり、91万枚超えというソロキャリア史上最大の売り上げを記録しました。

29歳の時に発売された「勝手にしやがれ」は現在も引き継がれている歴史的名曲となりました。
イントロやサビで「白い帽子」を客席に投げ飛ばすパフォーマンスが社会現象に
第19回日本レコード大賞、更に日本歌謡大賞などその年の主要な音楽賞を総なめにしました。

以降も、「ダーリング」や「ヤマトより愛をこめて」など次々に大ヒット曲が生まれました。
「第29回NHK紅白歌合戦」では、当時演歌以外のポップス歌手が大トリを務め大きな話題になりました。

27歳の時にかねて交際していた、「ザ・ピーナッツ」の伊藤エミさん結婚しました。
比叡山延暦寺での挙式は、当時人気のスター同士の結婚として大きな話題に!
20代はまさに誰もが認める日本のトップに上り詰めた激動の時代でした。
3.30代~40代:キャリアの中で最も大きな転換期

30代の頃の沢田研二さんです。
日本のポップス史に残る、挑戦的なビジュアルと先鋭的なロックでお茶の間を圧倒してきました。
沢田研二さんは「尖ったことをメジャーでやる」をコンセプトにお茶の間を驚かせていました。

1979年30歳の時にリリースされた「カサブランカ・ダンディ」ではトレンチコート姿での歌唱をしています。
ウイスキーを口に含み、霧のように吹きだす演出が話題になりました。

1980年31歳の時にリリースされた「TOKIO」では日本の歴史を塗り替えた革新的なロックナンバーと言えます。
伝説のパラシュート&電飾スーツ
この「TOKIO」を語るのに欠かせないのが、このド派手なステージ衣装でお茶の間の度肝を抜きました。
総額製作費250万円という、破格の巨額を投じて作られた事でも話題になりました。
斬新な歌詞や、こういったド派手なステージ衣装こそまさに伝説に残る1曲となりました。

沢田研二さんは20代後半~30代にかけて「8時だョ!全員集合」や「ドリフ大爆笑」などのバラエティにも出演していました。
沢田研二さんと志村けんさんのコントは日本のテレビ史において今なお語り継がれています。

当時、2人の容姿が似ていることを利用した、視覚的にも技術的にも非常に高度なコントで大きな話題になりました。
沢田研二さんはとてもストイックで台本等のチェックも厳しい事でも有名でした。
しかし、志村けんさんとのコントだけは「志村さんが決めてくれるから大丈夫」と信頼しあう仲だったそうです。

30代後半は独立と私生活での変化がありました。
1985年、36歳の時に個人事務所を設立しました。
1987年、38歳の時には伊藤エミさんと離婚した沢田研二さん。

この離婚は当時の芸能界における最大のスキャンダルとして日本中の注目を集めました。

離婚から2年後、41歳の時に女優の田中裕子さんと再婚!
田中裕子さんは沢田研二さんの最大の理解者となり生涯の伴侶として精神的に支え続けています。

1990年41歳の時に資生堂CMソングに起用されたシングル「DOWN」がヒットします。
スキャンダルを経て「ジュリーは終わった」という世間に対して大人の色気でファンキーなロックサウンドを見せつけました。
「テレビで魅せるジュリー」から「ライブハウスや劇場で魅せる本物のロックアーティスト」へ
30代後半の離婚・独立劇を乗り越え40代になり自らの再構築を行いました。

沢田研二さんを語るうえで欠かせないのが1989年41歳から始まった一人芝居形式の音楽劇「ACT」シリーズです。
毎年1作のペースで40代を駆け抜け、歌手の枠を超えた「大実力派の舞台俳優」としての地位を確立しました。

43歳の時に主演した映画「ヒルコ/妖怪ハンター」は日本のホラー映画史に残る異色作品となりました。
世界的な映画監督・塚本晋也さんのメジャーデビューが重なり今なお熱狂的な人気を誇っています。

40代後半の沢田研二さんは、バブル経済が崩壊後、日本社会を生きる「ミドル世代の男の哀愁や孤独、意地」というメッセージを多く発信していました。
この頃から、世界を魅了していたきらびやかな衣装やメイクは完全に消え自然体のビジュアルでステージに立つようになりました。
「かっこよく老いる」ではなく「泥臭く、等身大に生きる男」の凄みをそのまま表現していきました。

41歳から毎年続けてきた、一人芝居と音楽劇「ACT」シリーズが40代の終わりと共に10年の歴史に幕を閉じました。
狂気の画家ゴッホを圧倒的なエネルギーで演じ切り10年間毎年異なる芸術家を演じ大プロジェクトを完遂!
この劇場での濃密な経験が、後の「音楽劇」や「本格的な演劇ステージ」の成功へと繋がっていきます。
40代の沢田研二さんは華やかな歌謡界のトップスターから実力派のロックシンガーへと生まれ変わりました。
4.50代:二足の草鞋を確立

50代を迎えた沢田研二さんはこれまでの「孤高の美学」やテレビへの露出を一転しました。
自然体の小太りな姿を受け入れつつ、自身の音楽事務所でロック歌手としてストイックな活動を行っていました。
現在へと続く「キーボードとギターと沢田研二」というシンプルな構成での全国ツアーのスタイルを確立!
大手プロダクションに頼らない独自のライブツアー中心の活動を行っていきました。

50代で出演した「ふたりのビッグショー」で大きな話題を呼んだのが志村けんさんとの回でした。
往年の名作コントの再現や歌のコラボを見せファンを魅了しました。
バラエティの出演などで親しみやすいキャラクターを開花しました。

この頃の沢田研二さんは、ヒットチャートからは離れつつも「ファンに直接届ける」事を大切にしていました。
自主制作に近い形で、毎年のようにオリジナルアルバムを発売し続けます。

50代は、役者として「長期間の舞台(音楽劇)の稽古と上演」1年の前半を過ごました。
1年の後半は歌手として「全国ライブツアー」というサイクルを毎年のように完璧にこなしていたそうです。
まさに、50代の10年間は、この二足の草鞋を履き続けながら、ファンを魅了しました!
5.60代~現在:生涯現役のロックスター

60代を迎えた沢田研二さんです。
還暦を迎えた沢田研二さんは還暦記念コンサート「人間60年・ジュリー祭り」を開催しました。
約6時間半にわたるライブ時間で、音楽史に残る驚異的なパフォーマンスを見せ60代のスタートを切りました。

2013年65歳の時に「ザ・タイガース」の再結成を果たしました。
長年芸能界を離れていた、ドラムの瞳みのるさんも復帰、全国ツアーを成功させました。
沢田研二さんにとってもファンにとっても悲願の達成でした。

70歳を迎えたばかりの沢田研二さん。
この年のさいたまスーパーアリーナで開催予定だった全国ツアー公演が開演直前に急遽中止になりました。
9000人入ると説明され、実際は7000人に留まるという集客不足が大きな要因で沢田研二さんの意地とプライドでドタキャンにつながったそうです。
当初は、大バッシングを浴びつつも、沢田研二さん自身が一切言い訳せず男らしく頭を下げたことで徐々に騒動も落ち着きました。

2023年、75歳の誕生日に行われたさいたまスーパーアリーナツアーでツアーファイナルを開催しました。
プライドを傷つけられた因縁の地で1万9000人という超満員でチケット完売をしました。
ステージ上で「おかげさまで完売しました!」
満面の笑みで叫び、ドタキャン騒動を完全に笑い話へと変えていきました。
もうすぐ78歳になる沢田研二さん、舞台や映画にも精力的に出演されています。
「生涯現役のロック歌手」としてのこれからの沢田研二さんの活躍にまだまだ期待ですね!
沢田研二の昔の写真と現在を比較

若い頃の、沢田研二さんは「男性的でありながら色気がありどこか妖艶な雰囲気」がありました。
メンズメイクの先駆者として男性の美しさを極限まで魅せていました。
細身でスマートな体型で奇抜な衣装も、どこか上品に着こなす抜群のスタイルでした。
気品のある立ち振る舞いで、世の女性たちを虜にしていました。

現在の沢田研二さんは、白髪で自然体の姿を見せています。
若作りに固執せず加齢を前向きに捉えている姿は多くのファンかやメディアから絶賛されています。
若い頃の細身なスタイルから、貫禄のあるふくよかな体型になり可愛らしいおじいちゃんという印象も受けます。
ステージで沢田研二さん自身が、こう語り満面の笑みを見せる可愛らしい姿もあります。
ステージでは驚異的なバイタリティを見せ、若い頃のキーのままパワフルで変わらない歌唱力でファンを魅了!
「ステージに立ち、歌で観客を魅了するスター性」は若い頃から変わらず健在しています。
沢田研二の若い頃まとめ
今回は、沢田研二さんの若い頃について振り返りました。
- 10代:伝説のバンド「ザ・タイガース」のボーカルとしてトップへ駆け上がる
- 20代:バンド解散後ソロシンガーとして黄金期を迎える
- 30代~40代:伝説のアイドルジュリーから孤高の表現者への変革を遂げる
- 50代:ありのままの姿を貫いた日本で一番熱いロックシンガー
- 60代~現在:生涯現役でツアーや映画出演など精力的に活躍中!


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